LOGIN──解錠を試みて、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
地底にはもちろん太陽の光など届かず、時刻の見当もつかない。けれど、腹の減り具合から察するに、とっくに宵の帳は落ちて、夜も更けている頃合いだろうと想像できた。何百通りもの数字の羅列を書き出した指の感覚は、もはやおかしくなっていた。真新しかった筈のノートは、最初のページから最後の一枚まで、夥しい数字でぎっしりと埋め尽くされている。
「……多分、いけるでしょう」
ネクターは聴診器を外し、ノートを片手に三つのダイヤルへと向き直る。
カチリ、カチリ……カチリ。 全てが噛み合った小気味よい音とともに、蓋がわずかに浮いた。 見事、解錠成功。思わず小躍りしたくなったが、浮かれそうになる気持ちを抑え、ネクターはひとつ深く息を吐いた。やっとの対面だ。──だが、期待外れだったら? 不穏な何かが眠っていたら?
頭をよぎる不安を押し殺して、ネクターは意を固める。蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。錆びた金属の蓋はずっしりと重かったが、ある角度まで持ち上げると、勝手に開いた。
その瞬間は中を見ずにいたが──いよいよだ。どうか、白骨死体だけは勘弁してほしい。 生唾を飲み込み、ネクターは緊張した面持ちで箱の中を覗き込む。だが──それを目にした途端、言葉も悲鳴も出なかった。
白骨死体ではなかった。だが、それが遺体でないとも言い切れない。
そこに横たわっていたのは、少年とも青年とも判別がつかない、小柄な体格の男性だった。身に纏っているのは、古風なデザインのリネンシャツに、炭のように黒い下衣。枯れ葉色の編み上げ長靴を履いている。
背丈は、ネクターよりわずかに高いくらい。十七歳の彼女と同年代か、もしかしたら少し年下にも見える容姿だった。──だが、遺体にしてはあまりにも綺麗すぎる。
服も傷んでおらず、肌の色艶もよい。まるで、今この瞬間まで生きていたかのようで── ネクターは思わずしゃがみ込み、じっと彼を見つめた。雪のように白く、さらさらとした白金髪。
透き通るようなきめ細やかな肌。貝殻のように伏せられた瞼には、長く濃い睫毛。──そこには、儚くも美しい存在感があった。ネクターは、衝動に突き動かされるようにグローブを外し、そっとその頬に触れてみる。
そして──目を丸くした。……冷たいと思っていた。
けれどその頬は、まるで血が通っているかのように、じんわりと温かかったのだ。まるで本当に、生きているかのようで……。 「……貴方は誰? どうしてこんな場所にいるの? 貴方、生きているの?」 思わず語りかけてしまった──その、ほんの一瞬後だった。彼の眉がピクリと動いた。見間違いかと思ったのも束の間、彼は静かに、ゆるやかに──瞼を開いたのだ。
まさか、起きるとは。
だがそれ以上に、目を見開いてしまったのは──彼の瞳の、鋭さだった。蕩けるような寝顔とは裏腹に、目元はきつく、鋭く吊り上がった三白眼気味。
その瞳を彩る虹彩は、ガーネットのような深紅で、真っ直ぐネクターを射抜いた。恐ろしいほどの眼差しに、ネクターは硬直した。
無言のまま、彼は身体を起こす。
大きな欠伸をひとつし、瞼を擦りながら──ネクターに視線を戻した彼は、意識がはっきりしたのか、目を見開いて驚いたような表情を浮かべた。だが次の瞬間、彼は剣幕になってネクターに何かをまくし立てた。
声は高く、掠れていて、変声期を越えたばかりのような響き。そして、その言葉は──ネクターにとって、まったく聞き覚えのない言語だった。 発した単語の意味は分からないが、どことなく海の向こうの国、ツァールの言葉によく似ていると思えた。 「な……何?」 やがて、彼は起き上がり、ネクターの肩を掴んで無理矢理立たせると、更に剣幕になって吠えるように言葉を発した。 怒っているのだろうか。違う、何か訴えているように思える。だが、言葉が分からない。 ネクターが困惑したその時だった。 ──ゴゥ、と、地鳴りが響き、無数の光虫たちが、暴れるように飛び始める。 「……地震?」 一拍の間もなく、地面が激しく揺れた。 そして、彼の背後の岩壁がボロボロと崩れ落ち始めた。彼はすぐさま、ネクターの背を押して走らせようとする。また何か言葉を投げかける──けれど、理解はできない。
「え……何? どういうこと!」 何が言いたいのかまったく伝わらない。混乱の極みだった。 だが、ここに居ては危ないだろう。ネクターはおどおどとすると、彼はひとつ舌打ちを入れた。 彼が舌打ちをひとつする、その一瞬──ネクターは彼の瞳に戦慄した。 ガーネットのような深紅の瞳が、警告ランプのように赤い光を灯したのだから。 (……うそ、人じゃない。まさか、五百年の孤独って……古代兵器の類い?! それを起こした事で崩落が始まる仕組みなんてことじゃ……) そう思った矢先、「その通りです」と言わんばかりに──彼の背後の岩壁が、凄まじい轟音とともに崩れ落ちた。──逃げなければ、殺される。
そう直感したネクターは、青ざめながらリュックとランタンを掴み、必死に駆け出した。
その背後から、地底全体が崩れ始める轟音が響いた。 そうして、今現在。ネクターは崩落を引き連れて迫る彼から逃げているのだ。 行くんじゃなかった。開けるんじゃなかった──と、後悔したってもう時は遅すぎた。遺物なんて、百年単位で眠らせておくのが一番だ。
逃げ惑うネクターの頭に浮かんだのは、そんな皮肉めいた教訓だった。足音が近づき、レックスがネクターの作業部屋の前を通りかかった。母はその瞬間、すかさず彼を呼び止める。「お、何だ。ネクターの母ちゃん?」 そう言って、レックスは気軽に答えるが、その声は二年前より低く、容姿も見違える程に変わった。 かつてはネクターとほとんど変わらない背丈だったのに、今では頭一つ分も高く、スコットとそう変わらない。 工房での力仕事に加え、スコットの紹介でヒューズ社の部品工場でも時々顔を出して働くようになった。そのおかげもあって、華奢だった少年の体には筋肉がつき、随分と逞しくなっていた。 その顔立ちも、少年らしいあどけなさが消え、精悍な青年のそれに変わっていた。少し悪い顔をすれば、余計に悪人顔になったようには思うが……。 そう、あの手術以降……レックスは正しい時を取り戻し、成長を始めた。 あれから二年。彼は十八歳になった。 「……で、何か用か? ネクターも仕事が忙しそうだし、用件は早めに言ってやれな?」 軽く肩を竦めて言ったその一言に、ネクターは心の中でガッツポーズをした。 そうだ、よく言った。もっと言ってやれ。 一方の母は、そんな青年をじっと見上げ、少女のように口元を緩める。 「ねぇ、そういえばレックス君。貴方、ネクターと交際してるのよね? もう二年だっけ?」 「ああ、うん。そうだけど」 今更それが何か……とでも言いたげに、彼は小首を傾げた。 「率直に聞くけど、レックス君はネクターを完全に自分の傍に置いておきたいとか、そろそろネクターの赤ちゃんが欲しいって思わない?」 母のあまりにも直球な言葉に、レックスはこれでもかという程に目を丸くし、ネクターは顔を真っ赤にした。「ちょっ……お、お母様!? 昼間から何を言うの!」 慌てふためくネクターの声が部屋に響く。だがレックスは、不意を突かれた動揺をすぐに飲み込み、頬をかきながら穏やかに答えた。「一応、軍の精密検査の結
あの日々から、二度目の夏が訪れていた。 ネクターは十九歳になり、少女から大人の女性へと歩みを進めつつあった。とはいえ、〝異端の女職人〟は変わらずだった。 結局、レックスの手術が終わった翌年の春に、二人は叔母の工房へと戻ってきたのである。 理由は単純だった。叔母ひとりで工房を切り盛りするには、やはり限界があったのだ。「作業の手が早いネクターと、雑務を何でもこなすレックスがいないと店が回らないのよ!」 ──だから返せ。そう言って、叔母は母に向かってどやしつけたらしい。 戻ってきてからの日常は、驚くほど以前と変わらなかった。 毎日修理に追われ、毎日納品に走る。最近は個人客だけでなく、企業からの依頼も増えており、ますます忙しくなっていた。 だが持ち込まれる品の多くは、雑に扱われて壊れたものばかりだった。 ここ数年で、生活に便利な家電も増えてきた。一般家庭にもそれらは少しずつ普及し始めているが、どうやら「機器の不具合は叩けば直る」という迷信がどこからか広まってしまったらしい。 結果、余計に状態を悪化させた機械が持ち込まれることが後を絶たなかった。「──ッ! そんなわけないじゃない! もっと機械を大事に扱えないのかしら!」 文句をこぼしながらも、ネクターは結局手を動かすしかない。 その様子を見て、レックスは「ドリスに似てきたな」などとからかって笑うのだった。 愛すべき仕事であることに変わりはない。精密機械に没頭できる日々は、ネクターにとっては何より幸せだった。困ることなど──仕事に関しては、何ひとつなかった。 ただし、困りごとは別のところにあった。「ねぇ~ネクター? 貴女、もう来年には二十歳よね? そろそろうちを継ぐ気はなぁい?」 間近から響く母の甘ったるい声に、ネクターは顔を引き攣らせて鼻を鳴らした。「ないわ。というか、ブラックバーン社の社長様が毎週こんな所で油を売っていて良いのかしら? 私、仕事が忙しいの」 いいから帰った帰った。そう言って半眼を向ければ、母は頬をぷうっと膨らませ、「
反射的に振り向きそうになった。 だが、その瞬間、鋭く低い声が背後から響く。「……絶対に振り返るな」 重みを帯びた言葉は鋭く心臓を突き刺し、レックスは息を呑んだ。 聞き覚えのある声だった。否、五百年という途方もない時を経た今も、決して聞き間違えるはずがない。 ──アプフェル。ミッテ。 どうして彼女たちの声がここに響くのか。 ファオルは言っていた。同じ魂を持っていても、かつての記憶は残らないはずだと。ならば、いま耳にした声は幻聴か、それとも最後の奇跡なのか。 考えるより早く、視界はじわりと霞み、眦が焼けつくように熱を帯びる。 涙を堪えることなど、もうできなかった。「……フェリクス。ありがとう」 震えを含んだアプフェルの声が告げるのは、ただの感謝。 わざわざ、それを伝えるためだけに来たのか。あまりに酷い。会いたくて仕方がなかったのに、振り向くことは許されないのだから。 それでも──。 あのときの自分は、ただ仕える者として当然のことをしただけだ。 返す言葉も見つからず、レックスは黙って小さく頷いた。「聖者……いいえ、生者として生きなさい。必ず、必ず……幸せになると約束しなさい」 それは主人からの、最後の命令。 アプフェルがそう言い添えた直後、背中越しに暖かな気配が二つ重なった。 振り向いてはならない。 それでも、視界の端に映った影は、確かに茜色と黄金。アプフェルとミッテの面影が、涙に霞んで揺れていた。 頬を伝う雫の熱が煩わしくて、レックスは慌てて腕で拭った。 それでも涙は止まらない。「生きるに決まってんだろ! ……ミッテ、ボクに言ったじゃないか。生への執着を忘れるなって。たとえ一片でも希望になるからって……! 一度は投げ出そうとしたけど……でも、ボクはあの約束を守れただろ!」 嗚咽に押されるように声が迸った瞬間、荒々しくも優しい手が頭に触れた。 乱雑に髪を撫でる感触。大きく、温かな手。 ──あの頃もそうだった
その少女を思い出せない。 それが酷く悔しく、なんだか悲しくさえ思えて、フェリクス──いや、レックスは奥歯を強く噛みしめた。 胸の奥にぽっかりと穴が開いたようで、そこから大切な何かが抜け落ちていく感覚。喉の奥にせり上がる焦燥を必死に押しとどめようとしたその時、肩にとまる小さな影が小さくため息をついた。「……しょうがないなぁ、ヒントあげるよ」 羽ばたきとともに響いたファオルの声は、いつも通り飄々としていながらも、どこ か温かさを含んでいた。「〝歯車の魔女〟だ」 その言葉が告げられた瞬間、頭の中で何かが弾けた。 忘却の靄が一気に吹き飛ばされ、押し流すように記憶が雪崩れ込んでくる。 ────五百年前。 冷たい手術台に上げられ、目を覚ましたときに告げられた忌まわしい呼び名。〝生物兵器アビス〟。 使い物にならないと封印され、五百年の眠りについたこと。 やがて目覚めた自分を呼び起こした、桃金の髪をした聡明な少女との出会い。 無理やり結んだ契約。彼女を守るために権能を使った。 ──彼女は、なんと呼んでくれただろうか。『貴方のこと、レックスと呼んでもいい?』 柔らかく澄んだ声。アプフェルによく似た愛らしさを持ちながらも、より落ち着き、凛とした響きがあった。 その瞬間、彼の胸を突き破るように確信が走る。「……ネクター!」 叫び声とともに我に返ると、肩の上で羽を震わせるファオルが「おかえり」と穏やかに呟く。 レックスは震える指先を見つめながら、きょろきょろと辺りを見回した。どうして自分はこんな場所にいるのか──。だが、すぐに思い当たる。 以前ファオルが言った言葉。 「聖痕を持つ者の魂は〝還る場所〟を持つ」と。 ならば、ここはそういうことなのだ。「ちょ、ちょっと待て! 全部……色々思い出したんだが!」 取り乱す声に、ファオルは心底うんざりしたように返す。「何さ」 「これってつまり……ボク、死んだのか?」
あの後、レックスはネクターの生家で過ごすこととなった。 北南部の都市スチールギムレットにあるブラックバーン邸。そこは、レックスが王族や大貴族の屋敷で見慣れた荘厳さに決して劣らぬほどの立派な邸宅だった。 前々からネクターやドリスの所作に育ちの良さが垣間見えていたものの、いざ屋敷を目の当たりにしてしまうと──あぁ、やはり彼女たちは特別なのだと、心底納得させられる。 高い天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされ、幾重にも飾られたタペストリーには長き家系の歴史が刻まれている。重厚な階段を昇り降りするだけで、己が異邦人であることを痛感させられる場所だった。 そうして二ヶ月、三ヶ月と時が過ぎた。 日没が早まり、街に粉雪が舞い始めた頃──イフェメラ軍からレックス宛に一通の手紙が届いた。 内容をネクターに読んでもらったところ、脊髄に植え込まれた装置を取り外す準備が整ったという知らせだった。もしも手術の後も生存できれば、イフェメラ軍の保護と保証を受け、正式な国籍までも与えられるという。 だが、五百年も時を止められていた身だ。 いくら現代技術が飛躍的に発展していようとも、生存の可能性などどれほどのものか。言葉を尽くされてもなお、簡単には信じられなかった。 しかも、あの一件があったばかりだ。 あの日のように、甘言に誘われては新たな改造を施されるのではないか──そんな不安が頭を離れなかった。 だが、ネクターの母は静かに微笑み、彼の懸念を宥めるように言った。 「その心配は要らないわ。……今の軍に、そんな余裕は無いもの」 理由を聞けば、あの日の騒動に遡る。 ゴードン大佐が一般民に武力を向けたことは瞬く間に広まり、国の有権者たちが大騒ぎしたそうだ。その結果、イフェメラ軍は徹底した立て直しを迫られている最中であり、旧態依然としたやり方は決して許されぬ、と。そんな状況下にあるらしい。 「だから大丈夫よ」と言われて、レックスはようやく胸の奥から安堵を覚えた。 だが──問題は別にある。 生き残れるか否か。それこそが最大の壁だった。 最悪の結果
連絡通路を渡り、ブラックバーン社の飛行船に身を移した瞬間だった。 扉が閉まるや否や、張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、母はその場でへなへなと腰を落とし、床にしゃがみ込んでしまった。「お、お母様!?」 慌ててネクターも身を屈め、母の顔を覗き込む。 だが返ってきたのは、力なく崩れるような仕草ではなく、次の瞬間に娘を強く抱き寄せる温もりだった。 目を丸くしたネクターの耳元で、母は涙声を震わせる。「ああ……ああもう! 本当に怖かったのよ! 貴女が交渉に行って時間を稼ぐって、ドリスに急かされて、必死でここまで来たけれど……。なのに、無線で聞いたのよ。貴女があの豚に突き落とされて、海に落ちたって……!」 言葉を捲し立てる母の瞳には、今にも零れそうな涙が大粒に溜まっていた。 強い人だと思っていた。自分を突き放した冷たい母だと信じ込んでいた。──けれど今、必死に抱き締めて泣く姿は、ただの母親そのものだった。「もぅ……どうしてそんなに危ない橋ばかり渡りたがるの、この子は! 心配で……心配で……!」 そう叫んだ後、息を吸うようにぽつりと、「やっぱり魔女ね!」と憎まれ口を添える。だが、その口ぶりすらも泣き笑いに揺れ、くしゃくしゃになった顔でネクターの額や頬に幾度も口付けを落とした。 ──叔母から「切り札がある」と聞いてはいたが、まさかそれが母自身だったとは思いもしなかった。 確かに、この状況を覆せるのは母しかいなかったのかもしれない。 けれど同時に、危険を呼び寄せる立場に母を巻き込んでしまったことが、今になって骨身に沁みて恐ろしくなる。 自分は、これまで母の手紙を一度として開かず、返事さえ寄越さなかった。 嫌われ、捨てられたのだと思い込んでいた。──だが、こうして駆けつけてくれた。助けてくれた。 込み上げる思いに、ネクターは深く頭を垂れ、感謝と謝罪を口にした。 母は、少し赤い目を瞬かせ、肩で息をしながらも毅然とした声音を取り戻していた。「まったく……。可愛らしさの欠片もない反抗期の娘だって、